大人になる

 東京五輪開会式の演出を辞退されたMIKIKOさんのコメントを読みました。気持ちの整理をつけるため、この気持ちを何かに残しておくためにブログを久しぶりに書きます。社会への恨み節みたいになってもやむなし、と思っていましたが案外そうはならなかった。

 

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 Perfumeはもちろんのこと、Perfumeに携わる人々が大好きです。曲制作を一手に担う中田ヤスタカさんの曲は他の人が歌っている曲も全て聴いていますし、技術担当のRhizomatiksが開く展覧会には来月友人と足を運ぶ予定です。そして、総合演出担当のMIKIKOさんが手がけるELEVENPLAYの公演も見に行ったことがあります。「Nu.」と銘打たれた公演、本当に素晴らしかった。人が生まれて、自分の外見・内面を見つめて、他者を見つめて、葛藤して、そして生きて、死んでいく。生をテーマに作られた空間での、呼吸すら憚られるような緊張感は今でも忘れられません。

 

 Perfumeの振り付けやライブ演出などを手がける総合演出家、MIKIKO先生。他にも、多くのアーティストの振り付け・リオ五輪の閉会式の演出など、その活躍は止まるところを知りません。

 MIKIKOさんの手がける振り付け・演出は、ダンス的側面だけでなく所作・佇まい的な側面も強いです。リオ五輪の閉会式や「JOURNAL STANDARD『Kevin Cummins×Bjork starring ELEVENPLAY』」あたりをご覧いただけると伝わるかと思います。日頃の何気ない動作に着想を得ながらも、指先、爪先の角度にまでこだわり抜いたような緻密さが節々から滲み出ています。

 

 思うに、彼女の手がけるパフォーマンスの魅力の一つに「命懸けの粛々さ」という要素が挙げられます(粛々さという言葉は文法的には誤りかも)。そこには隙がなく、ともすれば機械的で無機質な印象も与えかねない。でも、よく見れば見るほど、裏側を知れば知るほど尋常でない熱量が感じられる。少しでも力加減を間違えばプツンと切れてしまう細い糸をピンと引っ張り続けるような、繊細で危うい営み。糸を持つのはMIKIKOさん自身だけではなく、パフォーマンスに携わる全員。しかも、全員の意識は「糸が切れないか」ではなく「どう糸を持つのが一番美しいか」という次元にある。そんなチームが生み出すパフォーマンスの持つ引力は計り知れません。

 

 例えば、Perfumeの「FUTURE-EXPERIMENT『FUSION』」での「世界各地で踊る3人の映像をリアルタイムで合成して1人に見せる」という演出や「PCubed『再生』」での「ドーム規模の会場でレーザーなどの派手な演出をほとんど使わず、シンプルな白色照明を浴びて踊る3人」という演出。「バックダンサーをつけない」というPerfume3人発の制約のもと、チーム全員がお互いの技術・熱意を信じていないと生まれなかった発想だと思います。パフォーマンスが精密であればあるほど、チームの信頼関係やPerfumeのこれまでの軌跡が色鮮やかに見えてきて、胸が打たれるんです。(その後の人間味しかないライブMCもね、また最高なんですよ。)

 

 

閑話休題

僕がMIKIKO先生を大好きな理由は他にもあります。彼女の発する言葉です。

 

『マネしやすい(振り付け)とか、多分いくらでもある方法だと思うんですけど、そっちに行っちゃうのはぬるいなと思って。ギリギリの振り付けだと思うんです。だから踊る人を選ぶ』(2019年2月4日放送『プロフェッショナル』)

 

『人が作っていることの凄さを、私は伝えていきたい。底力を伝えていきたい』(同上)

 

『しっかり自分を信じて、相手を信じて、相手を信じた自分を信じてっていうやりとりがあって。こだわるべきところと委ねるべきところの線引きがクリアであるっていうことが、仕事においてのプロフェッショナルだと思います』(同上)

 

『昔は年齢やキャリアとかの未熟さのコンプレックスがあったけど、なりたい年齢になれた(先生と呼ばれても違和感がなくなった)今、大満足中です。』(2017年4月23日放送 『情熱大陸』)

 

『日本っぽいものではなく、日本でやっているままのもので分かってもらえると信じてやっているとそれなりの信頼のあるリアクションが返ってくる』(2017年8月19日放送 SWITCH『インタビュー』)

 

 自分が胸を張って好きだと言えるもの・正しいと思えるものを、結果も責任も全部引き受けて、実現することができる。そうして輝いている大人がいる。「”大人”になりたくないなぁ」と漠然と将来にネガティブな気持ちを持っていた自分にとって、彼女の言葉やそれを体現する姿は一つの希望でした。「歳を重ねるって楽しい!」というのはPerfumeも最近よく口にしていますが、やはりMIKIKOさんの影響も強いのではないかと思います。こだわるべき所の徹底的な芯の強さと、それを包み込む柔らかい人柄。それは自分が目指すところでもあり、僭越ながら一人の人間として今も目標にし続けています。

 

 だからこそ、大人になる希望を教えてくれた彼女が、大人の事情で理不尽な待遇に甘んじなければならなかったことが、本当に悔しい。結果や責任を引き受ける場所すら奪われたことが、ただただ悔しい。然るべきパフォーマンスが、然るべき舞台で、然るべき人々の手で披露されるのを見たかっただけなのに。

 

 MIKIKOさんの五輪開会式の演出辞退に関するコメントを読んだばかりのときは、不確実でセンセーショナルな情報に自ら踊らされようとするほど、冷静さを失っていました。汚い誹謗中傷の言葉すら次々と胸の中に浮かびました。でもそれらの情報を拡散することも、罵詈雑言を誰かにぶつけることも、多分MIKIKOさんの望むことではない。好きだとも正しいとも胸を張って思えることではないし。

 

大好きな人たちに恥じない大人でありたいと、改めて強く思います。

飲食店の謎ルールの話

僕は今、とある飲食店でアルバイトをしています。基本的にみんないい人で楽しいバイト先ですが、一つだけ違和感がある決まりがあります。それは「座敷での接客は原則として着物を着た女性だけが行う」ということ。

 

もちろん、草履を履いている着物の女性の方が座敷への出入りがスムーズにできる、という理由はあります。また、個室は利用料を別途頂戴しているという点からも接客に慣れた店員が担当した方が良いという考えもあるのでしょう。ただ、どうしてそれを女性だけが行うのか、どうしてそれが当たり前のこととして定着しているのか、ということには些か疑問を感じずにはいられません。

 

こうしたルールは、(あくまで憶測ですが)「給仕行為は女性がするもの」という性規範の意識が座敷という伝統的な日本的空間において特に強くはたらき、自然と形成されたものではないかと思っています。自分の経験を顧みても、和室での接客は着物の女将さんが担当していたことが多いですし、それが「普通」として多くの人に根付くのも仕方のないことかと思います。

 

ただ、実際に働いてみると、このルールはデメリットの方が多い印象を受けます。とにかく、たまに作業効率が著しく悪くなる。座敷の呼び鈴が一気になったとき、男性アルバイトは手が空いていたとしても注文を伺うことはできないですし、できるサポートといえば座敷の前まで料理を運んだり、飲み物を作ったりする程度。また、呼び鈴が鳴ったのを男性が気づいても、わざわざ女性に声を掛けて行ってもらいます。

 

これらのデメリットよりも、「座敷での接客は女性がすべき」という伝統的な価値観は重視されるべきものなのか。「子供が騒いでも大丈夫なように」という理由で個室を使う家族連れのお客様に対する効率的な接客よりも、「可愛い女性の接客の方が嬉しい」というお客様の考えは無批判に優先されるべきなのか。

 

「個室料を別途頂戴するのだから質の高いサービスを追求するべきだ」という考えもありますが、その質の高いサービスの解を女性の接客とするのはあまりにも論理が飛躍していると思います。もちろん性別による接客の傾向の差は少なからずあるでしょうが、女性に劣らない柔らかな接客をできる男性だってたくさんいるので。

 

そもそも、「普段はやらないけど、やろうと思えば誰もができる状態」と「ルールとして決められた人以外はできない状態」だったら絶対に前者の方が健全だし合理的だと思うんだけどなぁ。古くからの価値観によって初めから選択肢を絞ることって、すごくもったいないことではないかと思います。

Perfumeと僕①

大好きなものが好きな理由って、改めて考えると難しい。そんなの好きだから好きとしか言いようがない。でも、せっかくこんな自分語りの場があるので、不定期にPerfumeファンとしてのこれまでを振り返ってみようと思います。ひたすら箇条書きの連続みたいな文章ですが、オタクが沼にはまっていく過程を見てみたい人はぜひ読んでみてください。

 

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Perfumeに興味を持ったのは中学1年生の頃、「VOICE」という曲がきっかけだった。他のアーティスト目当てで親が録画していた、2010年8月13日のMステでのPerfumeに何故かすごく惹かれて、録画を何度も何度も繰り返し見ていた。

 

ただ、当時の我が家の貧弱なネット環境と思春期の自意識が障壁となって、情報収集にはかなり骨が折れた。調べ学習という建前で公共施設のパソコンを借りて昔のライブ映像を見漁ったり、「ピコピコした音楽が聴いてみたい、別にPerfumeに興味があるわけじゃないけどせっかくだから借りてみようかな」という謎のスタンスを親にアピールしながらTSUTAYAでCDを借りたりしていた。

 

Perfumeのライブ映像や音楽を見る中で特に惹きつけられたのは、いわゆる「バキバキの曲」でのパフォーマンスで見せる普段とのギャップだった。テレビで見ていた時とは違う顔で、違う雰囲気をまとって踊る3人の姿に、ゾクゾクした。「もっと3人のカッコ良い姿が見たい」という気持ちが原動力となって、検索の手が止まらなかった。(ちなみに特に繰り返し見ていたのは「edge(⊿-mix)」と「GAME」のライブ映像。)

 

Perfumeにどんどんハマっていく一方で、中学の頃はPerfumeが好きな友達がいなかったから、溜まっていく感情は主にPerfumeファンが集う掲示板を見ることで解消していた。新曲や新情報で沸き立つ掲示板を見ては一緒に興奮し、掲示板に書き込まれた些細な小ネタを見つけては知識を深めた。自分が好きなものについて同じくらい熱を持っている人を見るのはすごく楽しかった。

 

こうして着実に沼にはまっていき、1年後には無事、新曲発売即予約初回限定版購入オタクが完成していたのである。

 

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当時、我が家には繋がらないパソコン(ウォークマンに曲を入れるためにしか使っていなかった)と親のガラケー、アクセス制限付きでwikipediaすら見られない自分のガラケーしかネット環境が無かった。そう考えると、きれいな映像がいつでも見られるパソコンやスマホ、他の人の感想を簡単に見られるSNSがある今は、沼にどっぷり浸かるにはめちゃくちゃ恵まれた環境だなと感じます。今回書いたのは10年のうちの始めの3年に過ぎないので、残りの7年間についてもいずれ振り返りたいと思います…!

歯医者とエモ

先日、右下の親知らずを抜きました。あまり外に出ずにいられる内にまとめて抜いてしまおうという魂胆でしたが、いろいろタイミングが合わず外出の用事が増えつつある今にまでずれ込んでしまいました。あと2週間で残りの3本も抜く予定です。

 

歯茎の麻酔が効くのを待っている間、この徐々に口周りの感覚がなくなっていく感じは中学校の頃の虫歯治療以来だなぁと、ぼんやり考えていました。

 

早く部活を抜けたときの非日常な感じ、治療台から見えていたどんよりとした梅雨空、汗でべとついた制服の不快感、その制服で治療を受ける気まずさ、待合室独特の薬っぽい匂い、治療後毎回買っていた近くのコンビニのサワーペーパー。

 

こんなことまで、と自分でも驚くほどいろいろなことが次々と思い出されて、真っ昼間の歯医者で感傷的な気分に浸ってしまいました。何が昔の記憶のトリガーになるのかって、全く予想がつかないですね。

 

そんな感傷も束の間、抜歯が始まってからは終始びびり倒していましたが、実際のところ覚悟していたほどは痛くなかったです。歯医者さんが手を震わせて僕の歯に力を掛けているのを感じたときは怖かったけれど。

 

また麻酔を使った歯の治療のお世話になるときには、今回のことを思い出すのでしょうか。ひょっとしたら今は全く意識していないような些細な感覚がトリガーになるのかもしれないなぁなどと考えつつ、治療箇所を刺激しないようそろそろと歯を磨いている今日この頃です。

未来の自分のため??

家計簿をつけるのがすごく好きです。使った額を記録するのに飽き足らず、来月のバイト代までシミュレーションして、「今月節約してたくさんバイトすれば、来月はこんなに余裕を持って生活できる!」と皮算用ではしゃいでは時間を溶かす、なんてことが多々あります。不思議なことにお金は貯まらないのですが。

 

振り返ってみると、僕はこんな風に「未来の自分に選択の自由を残してあげる」ということに喜びを感じているんだろうなぁと思います。高校時代に来週分の授業の予習を休日にまとめてやって「これで来週の自分は好きなことできる!」と喜んだり、「大学入ってから自分の好きなものを見つけることができる」と思って東大に入ったり。とにかく「未来の自分の選択肢を今の自分が奪わないように頑張る」という一種の信念みたいなものが、心配性な自分の行動の根底には流れているような気がします。

 

でも、その「未来の自分」っていつの自分なんだろう、とふと思うわけです。実際、少しお金に余裕ができた月の自分は次の月のために延々と家計簿と睨めっこしていたし、その週の予習をする必要がなくなった自分は更に次の週の予習を進めていたし。やっと未来の自分に重なった、と思った瞬間さらに未来の自分が現れて、その自分のためにまたその瞬間を捧げての繰り返しばかりな気がします。なんだかなぁって思っちゃいますね。

 

この信念が全て間違っているとは全然思わないけれど、それって覚悟や葛藤を伴う選択をする瞬間を延々と後回しにしているだけと捉えることもできるし、それだけだと結構もったいないのかなと最近の僕は思っています。結局勢いで選んだことの多くの帳尻は未来の自分が合わせてくれたし、寧ろその時にそれを選んだことで将来の自分の選択肢が新しく生まれたこともあったので。今この瞬間の自分が欲しいとものや求めていることにもスポットライトを当てようとした方が、毎日楽しいかもしれない。

 

とはいえ自分が今一番求めているのは今学期分の学費のメドです。休業補償と給付金、早く来ないかな。

自分の言葉が欲しい

こんにちは。最後にちゃんとした文章を書いたのは、バイトを除けばぶらうぉー以来なので、もう約2年半ぶりですね。時が経つのが早すぎる!

さて、今回ブログを始めたのは、23歳の目標の1つに「自分の発する言葉に対して丁寧でい続ける」ということを掲げたので、その目標達成の足掛かりに文章を書く場が欲しいな〜と思ったためです。

ちなみに「言葉に対して丁寧でい続ける」とは、「人を傷つけない言葉を使う」というよりは「言葉の持つそもそもの暴力性に自覚的でいる」というニュアンスです(友人の言葉を借りた)。言葉を発することって、自身の視野の狭さに由来する排他性や、他の意見を押さえ込む静かな圧力を本質的に孕む行為だと思います。「今日は良い天気ですね」という会話ですら農業従事者の方にとっては不快である、という話があるくらいなので。

一方で、暴力性の一切を排除した会話って、価値観のフィルターを通せない以上「今日は晴れ」「彼はあのとき歩いていた」みたいな客観的な事実以外にはなり得なくて、それはコミュニケーションと呼ぶにはあまりに無機質なものです。やはり人が発する言葉には常に暴力性があり、言葉を発することを選ぶ以上はそれに対して向き合い続ける責任があると思います。

 

これまでの自分は言葉の暴力性(に対する自覚)を、言葉を発しないための免罪符に使っていた節があったので、このブログを通じて自分が何気なく使う言葉と向き合って自分の言葉を確立していきたいです。(あと、周りの友達みたいに綺麗な文章を書けるようになりたい。) 基本的に堅苦しい話というよりも自分の考えていることとか体験したことをフラットに書き連ねる場所にしたいので、時間潰しに読んでいただけると嬉しいです!!